うなぎのブログ

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「親になること」について考えてみた

 僕にはいま1歳半くらいの子どもがいます。自分自身が親になってみてはじめて考えることができるようになったこともそれなりにあると思っています。今回は、子どもってどういう存在なのだろう?とか、親子関係って何だろう?といったような育児ブログ的なことを書こうと思います。

 

◇親子関係の暴力性

 まず、自分が親になってみて思うようになったことがあるのですが、それは、赤ちゃんや小さな子どもというのは非常に暴力的な存在だなぁ、ということです。子どもについてのイメージというと、カワイイだとか純粋だとかそういうものがよくあると思います。もちろんその通りです。めちゃくちゃカワイイですし、すごく純粋です。僕の子は世界で1番かわいいと思っていますよ。でも実際に子育てしてみると分かるのですが、ちょっとしたことでも泣くし、すぐ暴れたり危ないことしたりで、本当に暴力的だなとも思います。そもそもウチの子は僕を叩いたりしますし、それどころか噛みついてきたりもします。これについてはもう比喩でもなんでもなく暴力でしょう。

 赤ちゃんや小さな子どもというのは暴力的である。まずこの認識が出発点になります。そしてこの子どもの暴力性こそが人を親にする、このようなことが今回の話の内容になります。

 

 子どもは暴力的な存在です。生まれたばかりの頃は夜泣きも当然しますし、だんだん成長して自我が芽生えてくるとワガママをたくさん言うようになります。しかし、赤ちゃんや小さな子どものそういった行動というものは大人とのコミュニケーションを図る上での主な手段になってもいるのだと思います。なぜなら、そのように泣いて喚いて大人に世話をしてもらわないと生きていけないわけですから。自分が生きるために暴力的に振る舞っているという側面もあると思います。そして子どもから暴力的な行為を受けたとき、大人は否応なくそれに応えてしまいます。子どもの方からしても、大人の反応が期待できなければいくら騒いだところで仕方がないわけです。だとすれば、これは一種のコミュニケーションであるといえるのではないでしょうか。

 

 では一方で、大人の子どもに対する行為はどうでしょう。小さな子どもはよく悪いことや危ないことをしますよね。子どものそういった行為に対して大人は静止したり叱ったりすると思います。こういった大人の、静止したり叱ったりという行為は子どもにとってはきっと暴力的に映っているのではないでしょうか。なぜなら「自分はこうしたい!」という欲求があるのにも関わらず、それを止められたりそれについて叱られたりするというのはかなり強制力のある暴力だと捉えることもできるからです。子どもが親に反抗するのもうなずけます。子どもにとって大人というものは自分を守ってくれる存在であると同時に暴力的な存在でもあるわけです。

 

 大人にとって子どもは暴力的である。一方で、子どもにとっても大人は暴力的である。これが何を意味しているかというと、親子関係というものはそもそもある種の暴力性を帯びた関係であるといえる、ということです。ただし、親子関係が暴力性を帯びた関係であるからといって、僕はこのことを必ずしも否定的なものとして考えているわけではありません。むしろこういった暴力性があるからこそ大人は子どもの身の安全を確保することができると考えています。さらには、大人の方はこの子どもの暴力性と係わることによってこそ親になっていくことができる、とも考えています。これは一体どういうことか。詳しく書いていきましょう。

 

◇暴力と主体化

 子どもの安全を守るという点についてはあまり説明はいらないかと思います。小さな子どもは勝手気ままに動きますし、そこに大人が無理やりにでも介入しないと本当に危ない場面も多々あると思います。もしかしたら、子ども同士のケンカなどで他の子にケガをさせたりするかもしれませんし、そういったことに対してはきちんと叱ってあげないといけない。むしろ大人が子どもに対して暴力的に関わることを徹底的に放棄してしまうことの方がよほど残酷だと思いますし、そもそもそんなことはおそらく無理だろうとも思います。大人がある種の暴力的な仕方でもってして子どもを守らなければ、今度は自然の暴力にさらされてしまうわけですから。

 

 では、子どもの暴力的な行為によってこそ大人は親になることができる、という点についてはどうでしょうか。もしかしたらこんなことを言うと「親は苦労して子どもを育てるべきだ」といったような根性論の類に受け取られてしまうかもしれませんが、僕が言いたいことはそういった旨の主張ではありません。むしろ子どもを育てるには力を抜けるところはできるだけ楽をした方がよいと思います。子どもの体力には勝てないですから。大人の方が先に疲れてしまいます。それに自分自身が疲れていると、つい子どもにもつらくあたってしまいやすくなるかとも思います。

 では何が言いたいのかといいますと、まず、そもそも小さな子どもは暴力的なコミュニケーションを取ってくる存在なのでこの暴力性とまったく関係しないまま子育てをすること、子どもと関わることはできないということ。さらに、大人は子どもから暴力的な行為を突きつけられたときそれに否応無く応答してしまうということ。そして、子どもの暴力とそれへの応答というコミュニケーションを繰り返していくことによってこそ大人は親になることができる、あるいは親という存在にさせられてしまう。こういったことを主張したいのです。

 

 赤ちゃんや小さな子どもは大人に対して、泣いたり喚いたりワガママを言ってきたり叩いたりと暴力的なコミュニケーションを取ってきます。それに対して大人はあやしたり制止したり叱ったりなどして応答します。そういったことを繰り返すことによって、大人は徐々に親という存在になっていくのだと僕は考えています。

 むかしミシェル・フーコーというフランスの哲学者がいたのですが、彼は、誰かによって何らかの行為をさせられてしまうこと、あるいは行為をしてしまうこと、その反復によってこそ人は主体化する、というようなことを言っていたと思います。この、行為の反復によって人を主体化させる力のことを、彼は「権力」と呼びました。

 

◇親子間の権力

 ここまでは、最近親になったばかりの僕自身の経験を基にして自分の考えを書いてきました。しかしここから先は、小学生や中学生といった比較的大きな子どもを想定した話を書いていきたいと思います。そのためここからは僕がまだ経験していない話、想像での話になってしまうので、実際に大きな子どもを育てられている方にとっては的外れなことを言ってしまうかもしれません。しかしそれを踏まえた上で、それでも暴力性や権力といった視点から理解できることもあるのではないか、と思いましたのでそれについて書いていきます。その話とは、いわゆる子どもを支配する・支配してしまう親といった現象がなぜ起こるのか?ということについてです。

 

 子どもが小学生・中学生というように大きくなってからも、親は子どもの行動に対して厳しい制限を課したり、親のもつ(子どもの)規範から少しでも逸脱すると激しく咎めたりしてしまい、それによって子どもがつらい思いをしてしまう。こういったことはそれほど珍しいことでもないような気がします。では、どうしてこういうことが起こってしまうのか。

 子どもがまだ小さい頃というのは、これまでも言ってきたとおり、暴力的なコミュニケーションを取ってくるのでこれに対して大人も応答します。僕は、このことが子どもの身の安全を守ると同時に大人を親として主体化していく、と言いました。

 しかし子どもがだんだん成長していくと多くの場合、小さい頃と比べてあまり手が掛からないようになっていくと思います。それは、子どもが親に対して行う行為がもっていた、ある種の暴力性が小さくなっていく、ということでもあります。するとどうなるかというと、子どもが親に対して行使することができる権力も小さくなっていくのです。権力とは先ほども少し触れたように、人に何かをさせる力、その反復によって人を主体化する力のことです。ではなぜ、子どもの暴力性が小さくなっていくと権力も小さくなっていくのでしょうか。

 それは子どもがそれまで行っていた、危ないことしたり泣き喚いたりといった行為をあまりしなくなると、親もそれに応答するかたちで子どもを危険から守る必要が少なくなってくるからです。これはつまり、子どもは成長していってしまうと昔のように親を簡単には動かすことができないようになるということでもあります。子どもが親を動員することが難しくなっていく、この過程のことを、子どもの親に対する権力が小さくなっていくこと、と呼ぼうと思います。

 一方で、子どもの方は幼い段階から成長して大きくなってくると、ある程度自律して、親の指示に従ったり意向を汲んだりといった行動がとれるようになってくるかと思います。すると今度は親の方が子どもに対して権力を行使することができるようになっていきます。つまり、親が子どもに何かしらの行為をさせることができるようになり、これを反復させることによって子どもは徐々に大人へと主体化していくことになります。

 子どもの親に対する権力は小さくなっていくのに対して、親は子どもに権力を行使できるようになっていく。この際、子どもと親の権力関係がちょうどよいバランスを取ることができればよいのですが、これはなかなかに難しい課題であるように思えます。子どもはどんどん成長していくので、ちょうどよい関係のあり方というのも刻々と変化していくでしょう。またその一方で、親の方はというと子どもはいつまでも子どものまま、というようについ思ってしまったりすることもあるのではないでしょうか。

 この親子間の権力関係の調整に極端に失敗してしまうこと、このようなことが子どもを支配する・してしまう親というものを生み出しているのではないでしょうか。

 

◇大人から親へ、親から大人へ

 大人は子どもによって親へとなっていきます。でもきっと、子どもの成長にしたがって親子の関係というのも変化していくものなのでしょう。この関係の変化に親が取り残されてしまった状態、これが子どもを支配する・してしまう親というものなのではないでしょうか。このような親の権力が過剰になってしまったような関係は、僕としてはあまり望ましいものには思えません。

 では、そのような関係に陥らないために必要なことは何か?それは、子どもによって親へとなった大人は、今度は、親から再び大人へとなっていくことだと思います。いうなれば、親から大人への再主体化、あるいは親というものからの脱主体化というようなことです。そこまで強い言葉で言い切れるほど単純なことでもないような気がしますが、言いたいことはおおむねそのようなことです。それまで背負っていた「親」という存在からだんだんと降りていくことによって親子の権力関係から徐々に身を引きはがしていくこと、それによって子どもや自分自身を自由にしていくこと、親子関係にとってこういったことも大切なのではないかと考えています。

 

◇限界や問題点はあるけれど…

 ここまで親子の関係について暴力性や権力という視点から書いてきました。僕がここで書いたことは、親子関係や子どもの成長といった多様で複雑なもの、そのほんの一側面を切り取っただけのものにすぎません。子どもの発達や主体化の過程、大人が親になる過程などに関しては、親子関係以外の社会や制度といったようなものの影響というのはとても大きなものでしょう。むしろ、いかにして親以外のものとの関係を取り結んでいくのか、ということ自体が子どもの成長のプロセスそのものであると言うこともできるのかもしれません。

 また先述したとおり、前半部分は僕が親として経験したことを基にして書きましたが、後半の比較的大きくなった子どもに関する記述についてはかなり想像に頼るかたちになりました。そのため、もしかしたら僕はまったく的外れなことを言ってしまっているのかもしれません。

 そして1番気がかりなのが、僕が「子どもから暴力的な行為を受けたとき、大人は否応なくそれに応えてしまう」と書いてしまうことで、たとえばネグレクトなどを受けていた方やいままさに受けている子どもなど、そういった方々がこれを読んだとき一体どのように思うのか?ということです。僕がここで親子の関係について言及すること自体が、その関係のあり様にあてはまらない方々を排除してしまっているのではないか、との思いが頭をよぎってしまいます。しかし先ほども言ったとおり、子も親も親子関係の中で完結した、自閉した存在ではありません。僕たちは社会や制度とも関わりを結び、より複雑で多様な関係の中を生きています。それなので、ここで僕が言ったことがすぐさま「ネグレクトを受けていた人は大人として主体化されない」とかそういったことへと繋がるとは思っていません。

 

 上記のように今回の話には数多くの限界や問題点があります。しかしそれでも、まがいなりにもいま自分が親になってみて、いや、親になっていく中で考えられるようになったことがあるということもまた事実だと思っています。ですので、いまの自分ができる範囲のことを少しでもいいから書き留めておこうと思い、今回の話を書きました。今後も子育てをしていく中で、そのときどきで感じたこと考えたことを大切にして、それを何かしらのかたちにすることができればいいなぁと思っています。

 

◇おまけ

 僕は前回、「「憐れみ」とは何か? 『ゲンロン0』を読んで」という記事を書きました。

 

unagi0829.hatenablog.com

  今回の親子関係の話は、この前回書いた話と繋がっているところがあるなぁ思ったので、それについて最後に付け足そうと思います。

 

 僕は前回の記事の中で東浩紀の『ゲンロン0』の、特に「憐れみ」の概念について触れました。憐れみについて同書では、「「われわれが苦しんでいる人々を見て、よく考えもしないでわれわれを助けに向かわせる」もの」(p198)と書かれています。

 ところで僕は今回の記事では、子どものコミュニケーションは暴力的であり、親はそれに対してつい応答してしまう、と書いてきました。

 僕はこの2つのことは実によく似ていると思うのです。赤ちゃんや小さな子どもが苦しんでいるのに、それを無視し続けるのは難しい。親子とは、東のいうところの憐れみの感情によって始まる関係といえるのではないでしょうか。

 

 また、僕の前回の記事の主題は、憐れみは能動態でも受動態でもなく中動態である、ということでした。中動態の概念については國分弘一郎の『中動態の世界』を参照したのですが、同書の中にフーコーの権力論について言及されている箇所があります。いわく、「権力の関係は能動性と受動性の対立によってではなく、能動性と中動性の対立によって定義するのが正しい」(p151)と。また、僕の今回の記事もフーコーの権力論を念頭に置きながら書きました。親が子どもの要請に応じて能動的に「行為する」のか?それとも受動的に「行為させられる」のか?國分の話に従えばこういった記述は正確ではなく、「子どもが親に権力を行使するとき、親は行為のプロセスの内にいるのだから中動的である」ということになるでしょう。

 

 親が子に対してもつものは憐れみであるということ。その憐れみが親と子の間にある種の権力関係を発生させること。そして権力は能動態と受動態の対立ではなく、能動態と中動態の対立によって記述するべきであること。これらのことを考えると、僕の今回の親子関係の話は、前回の「憐れみは中動態として理解するべきだ」という主張を別の角度から補強する話であるということができるかと思います。ですので、この点についても今回僕が不十分ながらもこの記事を書いた意味はあったかと思います。

 

 親子関係というのは憐れみの関係の一例だと言いました。でも、もしかしたら一例であるどころか代表例であると言えるのかもしれません。『ゲンロン0』の後半部分である第2部は「家族の哲学」と銘打たれていたわけですから。

 また、他の方にとってはどうかわかりませんが、少なくとも僕自身にとって子どもとは、紛れもなく「誤配」されたものでした。欲望に従って行動した結果、誤配されたものとしての子ども。親になった当初はどう接すればいいのかよくわからなかった子どもという存在も、それと接し続け、悪戦苦闘する中でだんだんと「子どもが何をしたがっているのか」といったようなこともわかるようになり、関係を深めていくことができる。このストーリーは東が『ゲンロン0』の中で語った観光客の姿そのものであるように思えます。邪推になってしまいますが、東の観光客の哲学はもしかしたら彼自身が親になったことで生まれてきた思想なのかもしれません。