うなぎのブログ

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「この世界の片隅に」から考えてみた「戦前/戦後」

 「この世界の片隅に」という作品が話題となっているので僕もマンガと映画両方観てみた。

 そこでまず感じたことは、この作品は何か1つの視点から「これはこうだ」と断じることができるようなものではないな、ということだ。様々に解釈ができるような仕掛けが作品全体の中に散りばめられ、それらを言葉によっていくら切り分けようとしても決して全てを汲み尽くすことができないような、そんな作品だと思った。実際、自分自身も読み直す度に違う発見や気づきがあったりした。

 そういった幾つかの気づきの中でここでは、僕がこの作品から感じた「この物語の行く末がまるで現在へと続いているようか感覚」について書きたい。それが今の僕たち、今の日本にとって重要なことを示唆しているような気がするから。

 

 日本の中で太平洋戦争をテーマにした作品はそのメディアを問わず数多く作られてきたように思う。それら「戦争もの」の作品の多くは往々にして「反戦」という命題を共有してきた。「この世界の片隅に」もそういった作品群のひとつとして見ることもできるのかもしれない。しかし、僕がこの作品から読み取ったものはそんな単純なものではなかった。

 そもそも太平洋戦争をテーマにした作品の多くが「反戦」という命題を主題としている背後には、人々が暗黙のうち共有している前提があるのではないだろうか。その前提とは「日本史における戦前と戦後の分断・断絶」であると僕は思う。

 戦後日本は自らを戦前/戦後に分断し、二重化した。そしてその一方の極ー戦前ーを自己否定し、すべての歴史的責任を帰属させることによって現在ー戦後ーを新たに創り出した。

 反戦という命題は「戦時中」を「現在」という時点からはそれと対照的なものとして描き出し、前者を悲劇と、後者を平和と結びつけることによって今後二度と戦争を起こさないようにしようという意図を持っているという点において、先の前提を共有していると言える。これはきっと平和な時代を持続させるための有効な手立てであるのだろう。

 

 しかし、僕が「この世界の片隅に」から読み取ったメッセージはこうした歴史の分断・断絶ではなく、むしろ過去から現在へと連なるその連続性だ。

 物語の中ではまず、何の変哲もない日常が描かれる。そして物語が進むにつれて生活の中に少しづづ戦争が侵入していくことになるのだが、そうやって戦争に翻弄されながらも生きてゆく登場人物たちの姿が強く印象に残っている。

 本作品には、戦争の悲惨さを劇的で衝撃的なものとして描くのではなく、人々の日常・生活の方から戦争を捉えようとする視点が貫通している。戦争という出来事の悲劇さそれ自体ではなく、悲惨な戦争に巻き込まれていく日常を捉えることでこの物語はドラマティックになることを拒否する。しかし、劇的であることを放棄したが故にまるで「私たちが体験した」かのようなリアリティを獲得した。そしてそのリアリティは、物語が作品の中で完結したものではなく今現在の僕たちにまで紡がれているような、そんな感覚をもたらしてくれる。

 

 そういった意味においてこの作品は太平洋戦争の「前」と「後」とで自己を分断・二重化する戦後日本史観に疑問を挟み込みんでいると見ることができるのではないだろうか?その時代がたとえどんな社会であれ、その中には日々生活をしていかなければならない人々が確かに存在する。そして人々の生活は社会的な要因に常に翻弄されながらも継続され、紡がれ、現在へと至っているはずだ。その日常の中には確かに各々にとって決定的な事件もあっただろう。だがそれでもその生活・日常は断絶したものではなく、人は連続した日々を生きていかざるを得ない。

 この意味において、本作品が描き出した日常は、トップダウン的な歴史観に対してアンチテーゼを呈していると見ることができる。

 

 僕は、歴史を過去/現在、悲劇/平和、悪/正義というように分断し、過ちを過去に押し付けることで悲惨さから逃れるのではなく、悲惨な過去と現在とは連続した一連なりの歴史であり、悲惨さをありのままのかたちで現在において引き受ける、ということの可能性を本作品から感じた。

 象徴的な出来事を軸に時代を区分することは、混沌とした過去の世界を秩序化するために必要な手法であるということは確かだろう。しかし歴史はありのままの事実を表すのではなく、僕たちに語られることによって区画整理されるテクストだ。僕の目には「この世界の片隅に」という作品が、そうした歴史化の過程で引かれた境界線を掻き乱す可能性を持ったものとして映った。